言葉と事象の関係性について

さいきんまた小林秀雄にはまっている。

ひとつは次々に読んでいる本の流れにそって「小林秀雄 江藤淳 全対話」を読むに至ったこと。

もうひとつは、それが契機になり、ユーチューブの小林秀雄の講演を聞きながら寝落ちしていること。

「本居宣長」は小林秀雄の晩年の代表作だとおもう。本居宣長は「古事記伝」で知られている。「日本書紀」のみを日本の始まりのストーリィとする中にあって、本書により「古事記」が世の中に知らしめられたと言ってよい。

小林秀雄によると「古事記」は下手な漢文という評価らしいけれど、それは漢文を使い日本語本来の話し言葉を書き言葉にしようとしているかららしい。

オッケー、ここからは自分の解釈をつらつら書いてゆく。

そもそも僕たちは言葉を優先させがちだけれど、それは既存の言葉の中に、宮沢賢治の「春と修羅」じゃないけれど、ほんらい点滅している事象を無理に言葉の中に詰めているんだと思う。

とりわけ日本は中国から漢字が入ってきている。さらに漢字が入ってきたとき、明治維新後は欧米から、戦後はアメリカから本来日本にはないコンセプトが入ってきて、消化されないままその言葉を言ったりしている。なので腑に落ちない。